
前回(第2回)は、稟議とは何かについて整理しました。
稟議とは、単なる判子集めではなく、ある要求を組織として意思決定できる状態にまで整えるためのプロセスである、というのが前回の結論でした。
要求を明確にし、判断に必要な論点を整理し、関係者の観点を事前に通しておく。そうした働きによって、意思決定者が適切に判断できる条件を整えること。それが稟議の本来の役割です。
では、その先にある「決裁」とは何でしょうか。
企業の現場では、この言葉もまた曖昧に使われているように思います。
部長がよいと言った。会議で了承された。社長が口頭で触れた。メールで「了解」と返ってきた。
そうしたものが、時に「決裁が下りた」と同じ意味で扱われてしまうことがあります。
しかし、本来これらは同じではありません。
私は、決裁とは、組織として正式に意思を確定させ、実行責任を発動させる行為だと考えています。
この定義は、とても重要です。
なぜなら、企業における多くの混乱は、「何が正式な決定なのか」が曖昧なことから生じているからです。
ある案件について、関係者の間ではおおむね賛成されていた。
会議でも特に反対は出なかった。上司も「いいんじゃないか」と言っていた。
にもかかわらず、実際に進めようとすると、「まだ正式決定ではない」「その話は聞いていない」「誰が最終的に決めたのか分からない」といった問題が起きる。
このようなことは、中小・中堅企業では決して珍しくありません。
それはなぜか。
理由は、審議、了承、合議、承認、指示、そして決裁が、組織の中で区別されないまま運用されているからです。
まず整理しておきたいのは、稟議と決裁は同じではないということです。
稟議は、要求を整え、関係者の論点を通し、意思決定者が判断できる状態を作るためのプロセスです。
一方、決裁は、そのプロセスを踏まえた上で、組織として正式にその案件をどうするかを確定する行為です。
前者は決裁の前提であり、後者はその到達点です。
この違いを理解しないまま運用すると、二つの歪みが起きます。
一つは、稟議の途中段階で、すでに決まったかのように仕事が先に進んでしまうことです。
もう一つは、逆に、十分に論点整理が済んでいるにもかかわらず、何をもって正式決裁とするのかが曖昧なため、案件が宙に浮いてしまうことです。
どちらも、意思決定の質を下げ、現場に無用な混乱をもたらします。
決裁が正式な意味を持つためには、少なくとも三つの条件が必要です。
第一に、何について決めたのかが明確であることです。
何を承認したのか、何を実行してよいのか、どの範囲まで認めたのかが曖昧な決裁は、決裁とは言えません。
例えば、「進めてください」という一言だけでは、予算の範囲はどうか、実施時期はどうか、対象範囲はどうか、前提条件は何か、といった点が不明確です。
これでは、実行段階で解釈の揺れが起きます。
決裁とは、組織の意思を確定させる行為ですから、その意思の内容が明瞭でなければなりません。
第二に、誰が決めたのかが明確であることです。
中小・中堅企業では、実質的には社長が決めているのに、形式上は部門長決裁になっている、あるいは逆に、会議で皆が何となく賛成した結果なのに、誰が最終責任を負うのかが曖昧、といったことがよくあります。
しかし、本来、決裁とは責任の所在を伴う行為です。
したがって、正式決裁者が誰であるかは明確でなければなりません。
これは権威づけのためではなく、責任を明らかにするためです。
第三に、決裁されたことが記録として残ることです。
組織の意思は、記憶や空気だけでは維持できません。誰が、いつ、何について、どのような条件で決めたのかが残っていて初めて、後から確認もでき、学習もでき、見直しもできます。
口頭での了解や、その場の雰囲気による合意は、瞬間的には便利に見えても、後から組織を弱くします。
決裁が記録として残るということは、単なる形式ではなく、組織の継続性を支える基盤なのです。
ここでよくある誤解があります。
それは、「決裁者が決めるのだから、決裁者が全部の責任を負う」という考え方です。
しかし、これは正確ではありません。
決裁者は、組織として最終的な意思を確定させる責任を負いますが、その判断の前提となる要求の整理、情報の提示、関係部署の確認といった責任まで一人で負うわけではありません。
そこは、起案者や関係者や稟議プロセスに関わる各主体が負うべき責任です。
決裁とは、そうした前提が整えられたうえで、最終的に組織の意思を確定する役割なのです。
この意味で、決裁は「一番偉い人が押すハンコ」ではありません。
むしろ、組織の中で責任の線を引く行為だと言った方がよいかもしれません。
ここまでは起案者が整理する責任。ここまでは関係部署が確認する責任。
ここで正式に組織の意思を確定させるのが決裁者の責任。
こうした役割が区分されることで、企業の意思決定は初めて再現性を持ちます。
中小・中堅企業では、しばしばこの線引きが弱く、決裁が「雰囲気で決まること」とほとんど同義になっている場合があります。
社長が会議で一言言ったから決まり。
役員が反対しなかったから決まり。
担当部長が進めていたから、たぶん決まり。
こうした状態は一見すると速そうに見えますが、実は非常に危うい。
なぜなら、いざ問題が起きたときに、何が正式決定で、誰がどの責任を負っていたのかが見えないからです。
これでは、組織は学習できません。毎回、その場の力関係や記憶や空気に依存することになり、再現性ある経営にはつながりません。
また、決裁を軽く見る会社では、実行段階も不安定になります。
正式決裁が曖昧であるということは、実行してよい範囲も曖昧であるということです。
すると、現場は過剰に慎重になるか、逆に勝手に拡大解釈して動くかのどちらかになりやすい。
つまり、決裁とは単に決める行為ではなく、実行を安定させるための起点でもあるのです。
したがって、中小・中堅企業が決裁を整えるときには、単に決裁権者の一覧を作るだけでは不十分です。
・重要なのは、何をもって正式決裁とするのか。
・どの案件がどの決裁レベルに属するのか。
・決裁にはどのような情報が前提として必要なのか。
・決裁結果はどのように記録し、実行につなげるのか。
こうした点を明確にすることです。
稟議が「要求を整えるプロセス」だとすれば、決裁は「組織の意思を確定する行為」です。
この二つは似ているようでいて、役割がまったく異なります。
前者が曖昧だと、判断材料が揃いません。
後者が曖昧だと、何が決まったのかが分かりません。
両方が整って初めて、意思決定は機能します。
次回は、こうした本来の役割が曖昧なまま運用されることで、なぜ中小・中堅企業の稟議は遅く、雑になり、形骸化してしまうのかを考えます。
稟議や決裁が悪いのではなく、それを支える運用設計が曖昧だからこそ、組織は疲弊していくのです。
合同会社タッチコア 小西一有
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